六月の心

美術館で目が合ったあの人は運命の人ではあるまいかと思い過ごしてきた。踵を返された直後、追いすがることで何か輝かしい未来が待ち受けていたのではないのだろうかと。後悔の日々を過ごしてきた。再会のために星に願いを月に祈りを捧げた。そうすると天啓がおりた。「あれは又吉の生霊か影武者である」。
又吉に手紙を書いた。「どうか私が書店でハイネの詩集に手をかけたときに同じタイミングでその本を手に取るように又吉の生霊か影武者を差し向けてください」。読み返してバカバカしくなって手紙は出さなかった。
美術館で又吉風の人を二度見したのは潜在的に私は又吉が好きなのではと思い至った。好きな人の嗜好を探るためひたすら又吉のブログを読む。そこで登場した本や音楽を書き出した。とにかく又吉が一番リスペクトしている太宰から始めようと思い太宰治作品を読む。昔、読んでもう二度と読みたくないと思っていた。やっぱり「結局、自殺するよりほかに仕様がないぢゃないか。このように苦しんでも、ただ、自殺で終るだけなのだ、と思ったらこえを放って泣いてしまった。」(斜陽)という状態になった。
そんな鬱々とした状態でテレビを見ていると団扇作り名人が紹介された。老女がせっせと団扇を作っていた。だけど頭が紫色である。頭が白髪になったら紫に染めることができるのだ。「年齢を重ねるって素敵な可能性に満ち溢れているのね。私はまだまだ150年は生きるわ。でも去年ぐらいもあと150年生きるって言っていたから149年かしら。おほほほほ。」と決意する。(昔はなぜ紫色に染めるのか軽蔑を交えながら不思議に思っていた。だがあれはお腹が空いたら食事をとるように、喉が渇いたら水を飲むようにごく自然で無視すると生命に関わる欲求である。)
27日は誕生日である。又吉的なものが欲しい。広辞苑が欲しくなった。ネットで検索すると普通版が8400円。A4サイズの机上版が13650円。机上版は「た」ぐらいから分かれて2冊になっている。そういうのはなんだかイヤだ。普通版にする。普通版には革表紙版もある。それは15000円ぐらいする。迷う。8400円のにした。(勝手に広辞苑は4・5千円で買えると思っていたので、予想外に高額で驚いた。)
今は手元に広辞苑がある。とても豊かな気分だ。始めに20年来人に聞けずにいた言葉「バター犬」を調べる。広辞苑には載っていない。世界は未知なるもので溢れ我々の好奇心を刺激する。ひとまず家所蔵の太宰作品は読み終わり三島由紀夫の「禁色」を読んでいた。いっぱい知らない言葉があり広辞苑が大活躍だ。無辜や久闊、莞爾。足偏に庶民の庶、(足庶←くっつけて一文字にしてください)は「あなうら」と読む。発音から私はオシリの穴のことだと思ったが、広辞苑によると「あしの裏」のことだと分かった。広辞苑のおかげで読み間違えずにすんだ。
7月になった。7月7日は七夕だ。七夕の奇跡で6月2日をやり直すために「時空移動」を広辞苑で引きつつ星に願いを月に祈りを捧げる。
心の0.5%のところで北京紀行を完成させなければとも思っている。